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AcNo. CoGNo. tkjSG171  AlGNo. tkjSG171
絵師: 田河水泡  () 落款印章: 絵師検索 
判型: 寸法: 62×93(縦×横㎝) 続方向: 作品位置: 1枚組の 1枚目 1枚続の 1枚目
異版: 1928 Col重複: 1 All重複: 1
板元文字:  大日本雄弁会講談社発行の少年倶楽部8月号の付録
出版年月: 昭和03 (1928)・8月1日 出版地:  東京  同時作品
作品名:  無人島探検パノラマ  (日本アルプス征服 競争盤 の裏面) 
      むじんとうたんけんぱのらま 
      mujintoutankenpanorama 
個別解説:■日本アルプス征服競争盤の解説 commentarytkjSG171-1_1,tkjSG171-1_2,tkjSG171-2_1,tkjSG171-2_2,tkjSG171-3_1,tkjSG171-3_2,tkjSG171-4_1,tkjSG171-4_2.pdf を参照のこと。 本双六は、昭和3年(1928)8月1日、大日本雄弁会講談社発行の少年倶楽部8月号の付録である。 案は少年倶楽部編集局、画は吉川正一である。 振出し(発)は松本。ここから、夏の北アアルプスを満喫する登山道がスタートする。 欄外には以下のような誘いの文章がある。 「海抜九千尺、秀麗な姿をつらねて、雲表に聳えている日本北アルプスの峰々。ここには、地上の暑苦しさも、また、埃っぽさもありません。 ただ雄大な眺めと、爽やかな山気とが遥かに僕等の登ってゆくのを待っているばかりです。じくじく汗ばんで、氷水でも飲みたいような時は、 家中集まって、この盤をひろげなさい。立ちならぶ山々の姿と、遊戯の面白さとは、さながら自分で山登りをしているような楽しさにみんなを引き入れて、 暑ささも何も忘れさせずにはおなかいでしょう。」 北アの冷気を感じ、槍穂の山行をイメージできるなあ。登山経験者はわかるよね。 嶋々、乗鞍岳、白骨温泉、蝶ヶ岳、穂高岳、大正池、上高地、キャンプ、一ノ俣小屋(筆者注:現存しない)、燕(つばくろ)岳、大天井(おてんしょう)岳、槍ヶ岳、槍肩小屋、黒部五郎岳、平小屋、黒部駕籠渡し、針ノ木峠、屏風連峰、白馬岳、お花畑、剣岳、立山、室堂、立山温泉、千垣、そして、上り(着)は富山。 日本の登山史(戦前)を振り返れば、本双六が発行されたのは、北アルプスの主要地点に山小屋が開設され、新田次郎の孤高の人、加藤文太郎が活躍していた時期でもある。 この双六で遊んだ子供が戦後の登山ブームを牽引することにもなる。 後立山が屏風連峰と呼ばれていたことも興味深い。「屏風連峰」は昭和初期の大衆向け出版物に確認できる、後立山連峰の別称である。本双六(昭和3年)は、その最古級の印刷例と考えられる。 ※2日本の登山史(戦前):(本双六の発行年前後) 1888年(明治21)~1894年(明治27)、イギリスの宣教師ウォルター・ウェストンは第一回滞在のこの期間に、飛騨山脈、赤石山脈を登り、ロンドンで『日本アルプスの     登山と探検』を出版した。 1894年(明治27)、志賀重昂が『日本風景論』を出版し、「登山の気風を作興すべし」と力説した。 1905年(明治38)、イギリスの宣教師ウォルター・ウェストンと、地理学者志賀重昂の教示と影響により、直接的には小島烏水、越後の豪農高頭仁兵衛、日本博物学同志会の    武田久吉、河田黙、梅澤親光、高野鷹蔵、山草会の城数馬らの熱心な運動により、この7人が発起人となり、日本山岳会が設立された。 1907年(明治40)、陸地測量部測量官を務めた陸軍 技師 柴崎芳太郎は、山案内人の宇治長次郎、助手の生田信らと共に未踏峰とされてきた剱岳登頂に成功し、山頂で修験者     が遺したと考えられる錫杖の頭と鉄剣を発見した。 1909年(明治42)夏、吉田孫四郎らの越中剱岳登山、鵜殿正雄の穂高・槍初縦走、小島烏水の赤石山脈縦横断などにより日本アルプス探検の黄金時代を迎える。 1910年(明治43)、小島烏水『日本アルプス』全4巻(1910~15)を出版。 1911年(明治44)、オーストリアのレルヒ少佐が広めたスキー術が本州では高田を、北海道では札幌を中心として広まる。 1913年(大正2)年1月、鶴見大尉一行が富士山のスキー登山を行った。 1916年(大正5年)、松沢貞逸が白馬尻小屋の営業を開始する。 1918年(大正7年)、    穂苅三寿雄がアルプス 旅館(槍沢小屋)の営業を開始する。、 1919年(大正8)~1921年(大正10)、スイスの山々で本格的な登山を行い、アイガー東山稜の初登攀に成功した槙有恒が帰国し、日本の若い学生登山者の間に、    ピッケル、ザイル、アイゼンなどを駆使したアルプス的な登山が、槍、穂高、剱岳を舞台に始められた。  1928年(昭和3年)頃から、加藤文太郎が単独行で    日本アルプスの数々の峰に積雪期の単独登頂を果たす。、なかでも槍ヶ岳冬季単独登頂や、富山県から長野県への北アルプスの単独での縦走によって、    「単独登擧の加藤」「不死身の加藤」として一躍有名となる。 同年、本双六の発行。 1920年(大正9)、水平歩道(水力発電用ダム建設目的で作られた黒部市の欅平から仙人谷まで、黒部川上流沿いに約 13 km にわたって延びる歩道)が開通。 1924年(大正13)年6月、藤木九三,榎谷徹蔵,水野祥太郎,津田周二,中村勝郎らが日本初の岩登りと雪山登山を専門とした社会人山岳会     (RCC:ロック・クライミング・クラブ)を神戸に設立。 1925年(大正14) 藤木は日本初のロック・クライミング技術解説書『岩登り術』を著し,同年8月に北穂高滝谷の初登攀に成功。 1930年(昭和5)、山岳雑誌『山と渓谷』が創刊され,相次いで『山と旅』,『山小屋』,『ハイキング』などが発刊され、全国に登山ブームが起こる。 1930年(昭和5)3月~1932(年昭和7)1月 堀田弥一ら立教大学山岳部は, にかけて唐松岳~白馬岳,槍ヶ岳~奥穂高岳など主として積雪期の縦走登山に     実力を発揮し,それらは1936(昭和11)年のナンダ・コット初登頂に結実する。 1931年(昭和6)年,清水トンネルが全通すると,谷川岳は夜行日帰り可能な山となった。 1936年(昭和11)1月、数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑むが、猛吹雪に遭い天上沢で31歳の生涯を閉じる。
系統分類:  双六  昭和   画題:  名所・道中・観光  風俗・暮らし  冒険・宇宙  出世・競争・官位・キャリア・仕事・職業  風俗・暮らし  スポーツ 

所蔵:築地双六館 HP  資料部門: 浮世絵
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