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ARC管理No. 作品No. zenOH01-002_02
作品セット zenOH_01_002(002/000) MediaID
作品名 菅正雄オーラル・ヒストリー
とうしばへのにゅうしゃとこんぴゅーたかいはつへのかんよ
東芝への入社とコンピュータ開発への関与
別称 HARCおーらる・ひすとりーこれくしょん
HARC オーラル・ヒストリーコレクション
製作・出演者 【インタビュイー】菅正雄(元株式会社東芝)SUGA Masao 【インタビュアー】遠藤諭(HARC研究員)ENDO Satoshi
Genre   【IT】 
Keywords
分類
Media 動画/video 法量:1904/01/01 0:17:33 点数:
履歴 令和6 (2024) 03・27 (撮影)  撮影 ドワンゴ東銀座オフィス (東京) ZEN大学コンテンツ産業史アーカイブ研究センター
令和07 (2025) 07・23 (公開) 【公開形態】MP4ファイル;【公開仕様】SD・カラー・ステレオ 立命館ARC(日本文化資源デジタル・アーカイブ国際共同研究拠点) (京都)
令和07 (2025) 07・23 (保存) 【保存形態】MP4ファイル;【保存仕様】4K・カラー・ステレオ 立命館ARC(日本文化資源デジタル・アーカイブ国際共同研究拠点) (京都) 【決裁者】細井 浩一(HARC所長)、郡司 聡(HARC顧問)
製造備考 【撮影形態】MP4ファイル;【撮影仕様】4K・カラー・ステレオ
解説 ―― 今回は、メニューを4つに分けてお聞きします。1つはご自身のデジタルの世界に入られた経緯とか、当時の状況をうかがいたいと思います。2つ目なのですが一番うかがいたいのが、東芝さんの最初のラップトップ、最初のノートPCと言われているダイナブックについてです。それから3つ目は、海外市場で世界の覇権を握った時代について。4番目に菅さん自身が手がけられた記録メディア系についてうかがいたいと思います。 産業史として、企業としてどう捉えるか、コンペティターや市場はどうだったのか、ユーザーの動向、技術面やマーケティングなど、各部分についてうかがえればと思います。まず1つ目は、この分野に関わられた経緯について、お聞かせください。 菅:もともと東芝に入るときには、ロボットをやりたかったんです。ところが、面接でシライさんという技師長が、「君はロボットやりたいみたいだな。府中でロボットやってるけど、青梅のほうはどうなんだ、コンピュータやってるけど」と。「青梅はちょっと遠いですからね、新宿から」と言ったら、青梅になってしまい、コンピュータの工場に配属されました。当時の世の中は、大型機、メインフレームと言われる時代でした。メインフレームの世界は、IBM互換の大型機をつくっている会社グループと、独自のコンピュータのアーキテクチャでやっているグループに分かれていて、そのころにはもう勝敗が決まりつつありました。世の中はIBM互換のメインフレーム、大型機でないとソフトが動かないから、商売にならない状況でした。東芝とNECさん、それから三菱電機さんが互換でない、IBMのソフトが動かないものをつくっていました。富士通さんと日立さんが、IBM互換のものをつくっていました。私が入社したころは、大型機の撤退が決まっていました。もう1つ問題があって、当時、オイルショック、石油ショック(:菅さんは1951年生まれなので、就職は1970年代中盤。よって1973~77年の第一次オイルショックと思われる)があって、ほとんどの会社が学生の新入社員を採らない時代でした。でも当時は理科系の学生は結構優遇されていて、すんなり入れました。東芝は普段1000人ぐらい新入社員を採用するのですが、私の年は200人しか採らなかった。日立さんはゼロでしたが、同級生で行った人間がいるので、いろいろな伝手があったのだと思います。東芝は200人を最初に半分に分け、さらにその100人を2つに分けて、50人を半導体に、50人を原子力に配属しました。残りの100人をいろんなところに配属し、私はたまたまコンピュータ部門になりました。ただし、もう予め大型機は撤退することがわかっていたので、私が配属されたのは小型電算機事業部でした。小型機というのはオフコン(:オフィスコンピュータ)です。当時、オフコンが出始めたころで、そこでオフコンの設計をすることになりました。そこで初めてコンピュータを設計しなければならなくなったのですが、情報工学を学んで卒業したはずなのに、学校で習ったことはコンピュータをつくることに、ほとんど役に立ちませんでした。しかも、1人でコンピュータを設計する、1人1機種という感じでした。つくったこともない人間がコンピュータをつくらなければならず、慌てて本屋に行って、コンピュータのつくり方、コンピュータのことを書いてある本をみんな買ってきました。いろいろ勉強しましたが、それではつくれません。つくったことのない人がみんな書いているからです。困って、ほかの人がつくっているコンピュータを真似してつくるしかありませんでした。同じ東芝の中で前の世代のものを真似して、コピーして持ってきて、つくっていくしかありませんでした。それでつくったのが、T-15のモデル30というオフコンです(:TOSBACシステム15モデル30。1977年10月発売)。これは画期的で、日本で初めてオフコンで、直径30センチぐらいのハードディスクを採用しました。これを使ったハードディスクのオフコンを初めてつくり、よく売れました。入社して初めてつくったコンピュータが売れたので、もしかしたら自分に才能があるんじゃないかと思いました。本当はなかったのですが。そういう形で最初の商品ができました。コンピュータの素人が、学校では勉強してても実質素人がつくっていたわけです。大型機の撤退が決まり、小型機は順調に売れていて、オフコンは好調でした。すごく忙しく、今でいうブラック企業のような感じで、毎日夜中まで働いていました。その次のモデルをつくるとき、それをベースにして拡張したものをつくろうという計画でした。ところが、大型機の撤退が入社して2年経って本格的になり、技術者が余ってしまいました。そうすると仕事の取り合いになったのです。大型機はもう撤退で、つくらないので、大型機をやっていた人たちはメンテナンス、保守をやる人以外は全部いらなくなります。そうすると、素人がコンピュータをつくっているのを見て、自分たちは専門家だから、自分たちがつくったほうがよっぽどいいものができるということで、仕事の取り合いになってしまいました。私は入って2年ぐらいだったので、なんとなく「大変だな」と思っていた程度でした。ところが、課長とか部長は仕事の取り合いをしていました。大型機のエンジニアが余るから、その人たちに仕事を与えようと思ったら、誰かコンピュータをつくっている仕事を取るしかありません。そこで次の計画ができました。大型機は撤退しましたが、それはIBMの大型機についてでした。当時の状況は、端末を1対1でつないでいて、大型機の下に端末がいっぱいつながっている状態で、非常に効率が悪かったのです。そこで東芝が考えたのが、分散処理コンピュータでした。間に処理するものを入れて、それを大型機につないでいけば、大型機の負荷が減ると考えました。大型機はもうつくらないので、IBMのコンピュータや、富士通のコンピュータ、日立のコンピュータにメインフレームは任せて、その途中に、端末との間に入れる分散処理コンピュータをつくろうとしました。分散処理コンピュータは世界でIBMがやっていました。仕事の取り合いの結果、オフコンでつくった実績があったので、私ともう1人の設計者の2人でコンピュータの本体をつくることになり、大型機から撤退した人たちは、その本体のOSやアプリケーションソフトをつくる方にまわることになりました。一方、端末もつくっていくわけです。IBMの端末を使ってもいいのですが、独自の端末をつくることになり、その仕事を大型機の経験者がやることになったんです。本当は大型機のコンピュータのメインをやりたかったんですが、われわれの上司がそれを確保してしまったんです。2回目の私のプロジェクトは、分散処理コンピュータでした。これは今でも自慢できるのですが、コンピュータの素人が初めてつくって、しかもたった2人ですごいコンピュータをつくったんです。しかもゼロからです。皆さん想像がつかないでしょうけど、足し算なども全部自分で決められます。コンピュータを全部ゼロからつくるので、足し算の記号はこういう形でやっていこうとか、そういうのを全部仕様書をつくるんです。エンジニアリングスペックというんですけど、それを全部決めて、コンピュータはこういう形にして、何ビットのコンピュータで、命令語はこういうものをつくろうと。たぶんこれが日本で独自に初めて命令語からすべてのものをゼロからつくったコンピュータの、最初で最後のものなんです。それをやらせてもらいました。これも世の中にないので、つくり方がわからないわけです。それで何をやったかというと、ハネウェルという(Honeywell Inc.:米国の電子制御システムや自動化機器を製造販売を手掛ける企業1980年代までコンピューターも製造販売していた)会社があって、GE(General Electric Company:米国の大手総合電機メーカー)と一緒にやっていたんですが、そこがミニコンピュータをつくっていたんです。東芝はハネウェルと共同開発契約をしているから、そこの情報が全部入ってきました。したがって、ハネウェルの設計をベースに分散処理のコンピュータを、同じものをつくることにしました。それが2つ目です。ところが、東芝の営業マンのやることがないんです。もう大型機撤退ですから、あとは終戦処理をやっているだけなんです。そうすると売るものがないので、まだできていないものを売りに行くわけです。分散処理コンピュータ「DP/6」(:1978年)というのが当時の名前です。ディストリビューテッドプロセッサー「DP/6」というのが。これが、設計してつくり始めて2年で製品をつくらなければいけなかった。なぜかというと、もう売るものがないから、みんないままでメインフレーム入れていたところに売りに行ってしまうんです。それで、どんどん注文が取れてしまう。そうすると1年半ぐらいから出していかなければいけない。2年目には最終的な製品で。そうすると、素人がつくるわけですから、バグがいっぱいあるわけです。それでバグがある程度あっても、お客さんは実際に使いますから、そんなこと知らないで。大型コンピュータをつくった会社だから大したものだと。それで、たった2人でつくったので、テスト用のプログラムもないわけです。あとから追いかけてつくっているので、まだ本物ではない。そうすると1年半経つと、もう注文が結構あるから出荷しなければいけない。この分散処理コンピュータは、今だともういいんでしょうけど、素晴らしくいい日本の有力企業ばかり注文が取れている。トヨタさんであるとか、アルプスさんであるとか、デンソーさんであるとか。もうあらゆる日本のキーの企業に「はい、はい、はい」って言って注文をもらってしまった。どんどん出していく、日本の鉄鋼、八幡製鉄なんかも全部含めて。ところが、分散処理コンピュータなので、メインフレームは冷却装置がちゃんとついた涼しいところで動かすんですが、分散処理コンピュータは端末の近くなので、もう吹きさらしの、ゴミがいっぱい飛んでいるようなところに置かれるわけです。しかも、故障してはいけない。製鉄会社なんて、溶鉱炉の隣なんかに置かれるわけです。ゴミもいっぱい入るから、そうすると本来バグがあるものに加えて、環境が劣悪なので、ますますトラブルが起こるわけです。 しょっちゅう呼ばれるわけです、直しに来いと、どうなってるんだと。設計者は、おまえがつくったのかと、直しに来い。だからもう毎週、毎週、フルタさんといろんなところに行って、それでもやっているうちに、だんだん、だんだんよくなってくるわけです。それで、めちゃくちゃ売れてしまいました。だから、オフコンが売れて、分散処理コンピュータを、大ヒットしてしまった。私がやっていた「DP/6」と「DP/8」で。「DP/6」は、ダメロク、ダメロクって言われていた。ダメロクをつくったのはどいつだと。それをやったあとで、ちょうど東芝の3年が終わったんです。3年終わると東芝にいい制度があって、海外で留学でも何でも勝手にやって、みんなお金払ってやるという制度があり、「3年経ったから、じゃあ、ついでに応募しよう」といって応募したら、通ってしまったわけです。それで、ちょっといままでの仕事はさて置いて、出かけることにしたんです。イリノイ大学というところに行ったんです。あそこは、「ILLIAC(イリアック)」というコンピュータ(:開発プロジェクト)をやっていたから。そこへ行って、それで帰って来ました。1年半だけ行かせてくれて、東芝が給料も払ってくれるし、そのほかの留学費用も全部出してくれた。今の東芝じゃ、ちょっと考えられない話ですけど。そういう制度があって、30人ぐらい年間行って来るんです。今度、帰って来たら、いない間に分散処理のコンピュータはどんどん売れるから、営業マンも、ソフトウェアのエンジニアも、ハードウェアのエンジニアもいないわけです。自分たちがやっていたころの人間は。小型機をやっているんじゃなくて、大型機をやっていた人たちがみんなやっていて。それで次の仕事を探さなければいけない、それでパソコンになりました。パソコンがどうも伸びそうだと。それはアメリカにいても、アップルのコンピュータがあるということで、まあ8ビットですけど、あるので。そこで初めてパソコンをやろうという機運が、東芝の中でも起こったし、次の新しいやつを見つけようということで。私の上司の溝口(:溝口哲也)さんなんかが言い出して。私も実際にそういうことを思ってやり始めたわけです。まずは8ビットです。ところが、NECさんが8ビットというか、ボードコンピュータから、非常に最初からやっていて。それを8ビットのコンピュータにしたから、すごく売れているわけです。日本ではシェアがもうトップなんです、NECさん。そのあとで東芝は8ビットのコンピュータを出そうということで、「PASOPIA」(:1981年)という8ビットのを出したんです。
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