(2)
母
芥川龍之介
一
部屋の隅に据ゑた姿見には、西洋風に壁を
塗つた、しかも日本風の疊がある、――上
海〔固〕特有の〔〔部屋〕二階〕旅舘の〔〔内部〕部屋〕座敷〕二階が、一部分はつきり映つ
てゐる。まづつきあたりに空色の壁、それか
ら眞新しい何疊かの疊、最後にこちらへ後を
(3)
見せた、西洋髪の女が一人、――それが皆
冷かな光の中に、切(せつ)ない程はつきり映つてゐ
る。女は其處にさつきから、縫物か何かして
ゐるらしい。
尤も後〔〔は見せ〕を〕は向いたと云ふ條、地味な〔〔銘仙〕の〕女の〕銘仙羽
織の肩には、崩れかか*1た前髪の〔〔陰に、〕□〕はづれに、
蒼白い横顔が少し見える。勿論肉の薄〔い〕い耳
〔が〕に、ほんのり光〔を〕が透〔かせ〕つたのも見える。やや長
めな揉み上げの毛が、かすかに耳の根をぼか
したのも見える。
この姿見のある部屋には、〔隣□〕隣室の赤子
の啼き声の外に、何一つ沈黙を破るものはな
い。未に降り止まない雨の音さへ、此處では
一層その沈黙に、単調な気もちを添へるだけ
である。
「あなた。」
さう云ふ何分かが過ぎ去つた後、女は〔姿見を後にした儘〕仕事
を續けながら、突然、しかし覚束なさうに、
かう誰かへ声をかけた。
誰か、――〔それは姿見と並んだ窓に、ぼ〕部屋の中には女の外にも、丹
(4)
前を羽織つた男が一人、ずつと離れた疊の上
に、〔新聞を前へ〕英字新聞をひろげた儘、長々と腹這ひに
なつてゐる。が、その声が聞えないのか、男
は手近の灰皿へ、巻煙草の灰を落したぎり、
新聞から眼さへ擧げ〔や〕ようとしない。
「あなた。」
女はもう一度声をかけた。その癖女自身の
眼も、ぢつと針の上に止まつてゐる。
「何だい。」
男は〔けげんさうに〕幾分うるささうに、丸々と肥つた、口髭の短い、活動家らしい顔を抬げた。
「この部屋ね、――この部屋は変へちやい
けなくつて?」
「部屋を変へる? だつて此處へは〔昨夜〕やつ
と昨夜、引つ越して来たばかりぢやないか?」
男〔はけげんさ〕の顔はけげんさうだつた。
「引つ越して来たばかりでも。――前の部
屋ならば明いてゐるでせう〔。」〕?」
男は彼是二週間ばかり、彼等が窮屈な思ひ
をして来た、日当りの、悪い三階の部屋が、一
瞬間眼の前に見えるやうな気がした。――塗
(5)
〔塗〕りの剥げた窓側の〔〔窓〕壁〕壁には、色の変つた疊
みの上に、更紗の窓掛けが垂れ下つてゐる。そ
の窓には何時水をやつたか、花の乏しい天竺
葵(ジェラニアム)が、薄い埃をかぶつてゐる。おまけに窓の
外を見ると、始終ごみごみした横町に〔は、〕、麥
藁帽をかぶつた支那の車夫が、所在なささう
にうろついてゐる。……
「〔お前はあすこ〕だがお前はあの部屋にゐるの〔が、〕は、嫌だ嫌だ
と云つてゐたぢやないか?」
「ええ。それでも此處へ来て見たら、急に又
この部屋が嫌になつたんですもの。」
〔「〕女は針の手をやめると、もの憂さうに顔を
擧げて見せた。眉の迫つた、眼の切れ〔□〕の長
い、感じの鋭さうな顔だちである。が、眼の
まはりの暈を見ても、何か苦勞を〔経て来た〕堪へてゐる事
は、多少の想像が出来ないでもない。さう云
へば病的な気がする位、米噛みにも静脈が浮
き出してゐる。
〔〔男は曰〕「好いで〕
「ね、好いでせう。――いけなくつて?」
(6)
「しかし前の部屋よりは、廣くもあるし居心
も好いし、〔――〕不足を云ふ理由はないんだから、―
―〔□〕それとも何か嫌な事〔でも〕がある〔の〕かい?」
「何つて事はないんです〔れ〕けれど、……」
女は〔仕事に〕ちよいとためらつた〔が〕ものの、そ〔の〕れ以上立ち
入つては答へなかつた。が、もう一度念を押
すやうに、同じ言葉を繰り返した。
「いけなくつて、どうしても?」
今度は男が新聞の上へ、煙草の煙を吹きか
けたぎり、好いとも悪いとも答へなかつた。
部屋の中は又ひつそりなつた。唯外では〔相〕
不相変、休みのない雨の音がしてゐる。
「春雨やか、――」
男は少時たつた後、ごろりと仰向きに寐轉
ぶと、独り語のやうにかう云つた。
「蕪湖(ウウフウ)住みをするやうになつたら、発句でも
一つ始めるかな。」
女は何とも返事をせずに、縫〔の〕物の手を動か
してゐる。
「蕪湖〔は田舎町に違ひないが、〕もそんなに悪い所ぢやないぜ。〔〔殊に〕それ〕第一社」
(7)
宅は大きいし、庭も相当に廣いしするから、
草花なぞ作るには持つて来いだ。何でも元は
陶家花園とか云つてね、――」
男は突然口を噤んだ。何時か森(しん)とした部屋
の中には、かすかに人の泣くけはひがしてゐ
る。
「おい。」
泣き声は急に聞えなくなつた。と思ふとす
ぐに又、途切れ途切れに續き〔始め〕出した。
「おい。敏子」
半ば体を起した男は、疊に片肘靠せた儘、
当惑らしい眼つきを見せた。
「お〔い。〕前は己と約束したぢやないか? もう
愚痴はこぼすまい。もう涙は見せない事にし
よう。もう、――」
男は〔〔僅に〕ちよいと〕ちよいと眶(まぶた)を〔抬〕擧げた。
「それとも何か〔□〕あの事以外に、悲しい事でも
あるの〔か〕かい? たとへば〔支〕日本へ歸〔りたい〕りたいと
か、支那でも田舎へは行きたくないとか―
―」
(8)
「いいえ。――いいえ。そんな事ぢやな〔いわ〕く
つてよ。」
敏子は涙を落し落し、意外な程烈しい打消
し方をした。
「私はあなたのいらつしやる所なら、何處へ
でも行く気でゐるんです。ですけれども、―
―」
敏子は伏眼になつたなり、溢れて来る涙を
抑へようとするのか、ぢつと薄い下唇を噛ん
だ。〔見れば〕見れば蒼白い頬の底にも、目に見えない
焔のやうな、切迫した何物かが燃え立つてゐ
る。震へる肩、濡れた睫毛、――男はそれ
らを見守りながら、現在の気もちとは没交渉
に、一瞬間妻の美しさを感じた。
「ですけれども、――この部屋は嫌なんで
すもの。」
「だからさ、だからさつきもさう云つたぢや
ないか? 何故(なぜ)この部屋がそんなに嫌だか、
〔〔さ〕□〕それさへはつきり云つてくれれば、――」
男は此處まで云ひかけると、敏子の眼がぢ
(9)
つと彼の顔へ、注がれてゐるのに気が〔□〕つい
た。その眼には涙の漂つた底に、殆敵意にも
紛ひ兼ねない、悲しさうな光が〔漂つて〕閃いて
ゐる。何故この部屋が嫌になつたか?―
―それは〔男〔の〕の口から出た〕独り男自身の疑問だつたばかり
ではない。同時に又〔□〕敏子が無言の内に、男
へ突きつけた反〔問〕問である。男は〔思はずためらひ〕敏子と眼を合
せながら、二の句を次ぐのに躊躇した。
しかし言葉が途切れたのは、ほんの数秒の
間である。男の顔には見る見る内に、了解の
色が漲つて来た。
「あれか?」
男は感動を蔽ふやうに、妙に素つ気のない
声を出した。
「あれは已も気になつてゐたんだ。」
敏子は男にかう云はれると、ぽろぽろ膝の
上へ涙を落した。
窓の外には何時の間にか、日の暮が雨を〔白〕煙
らせてゐる。その雨の音を撥ねのけるやうに、
〔隣室では〕空色の壁の向うでは、〔しつきりない〕今も亦赤児が泣
き續〔□〕けてゐる。……
(10)
二
二階の出窓には〔日〕鮮かに、朝日の光が当つてゐる。その向う
には三階建の、赤煉瓦にかすかな苔の生へた、
逆光線の家が聳えてゐる。薄暗いこちらの廊
下〔に立つ〕にゐると、出窓はこの家を背景にした、大
きな一枚の画のやうに見える。巖丈(がんじやう)な檞の窓
枠が、丁度額縁を嵌めたやうに見える。その
画のまん中には一人(ひとり)の女が、こちらへ横顔を
向けながら、毛糸の〔A懸け〕靴足袋を編んでゐる。
女は敏子よりも若いらしい。〔〔派手な銘仙の〕血色の好い頬〕
雨に洗は
れた朝日の光は、その肉附きの豊かな肩へ、―
―派手な〔銘〕大島の羽織の肩へ、はつきり大
幅に流れてゐる。それがやや仰向〔□〕きになつた、
血色の好い頬に反射してゐる。心もち厚い唇
の上の、かすかな生ぶ毛にも反射してゐる。
〔今は九〕午前十時と十一時との間、――〔今が〕旅舘では今
が一日中でも、一番静かな時刻である。〔〔泊り客〕商用で〕商賣に
来たのも、〔〔〔遊〕覧〕び〕見物に来たのも、泊り客は大抵外
出して〔□〕しまふ。下宿してゐる勤め人たちも、
勿論午までは歸つて来ない。〔〔女〕出窓にはさう云ふ沈〕その跡には
(11)
唯長い廊下に、時々上草履を響かせる、女中
の足音〔□〕だけが残つてゐる。
〔こ〕この時もそれが遠くから、だんだんこちら
へ近づい〔たと思ふ〕て来ると、〔女は聞き〕出窓に面した廊下には、
四十恰好の女中が一人、紅茶の道具を運びな
がら、影画のやうに通りかかつた。女中は何
とも云はれなかつたら、女のゐる事も気がつ
かずに、その儘通りすぎてしまつたかも知れ
ない。が、女は女中の姿を見ると、心安〔や〕さう
に声をかけた。
「お清さん。」
女中はちよいと會釈し〔ながら〕てから、出窓の方へ
歩み寄つた。
「まあ、御精が出ますこと。〔坊ち〕――坊ちやん
はどうなさいました?」
「うちの若様? 若様は今御休み中。」
女は縫針を休めた儘、子供のやうに微笑し
た。
「時にね、お清さん。」
「何でございます? 眞面目さうに。」
(12)
女中も出窓の日の光に、前掛だけくつきり
照らさせながら、浅黒い眼もとに微笑を見せ
た。
「御隣の野村さん、――野村さんでせう、
あの奥さんは?」
「ええ、野村敏子さん。」
「敏子さん? ぢや私と同じ名だわね。あの
方はもう御立ちにな〔る〕つたの?」
「いいえ。まだ五六日は御滞在でございませ
う。それから何でも蕪湖(ウウフウ)とかへ、――」
「だつて〔〔今朝御隣〕さつき前を〕通つたら、〔お〕御隣にはどなた
もいらつしや〔な〕らなかつたわよ。」
「ええ。昨〔夜〕晩(さくばん)〔又(また)〕急(きう)に又、三階へ御部屋が変りまし
たから、――」
「さう。」
女は何か考へるやうに、〔〔ちよいと〕丸〔々〕丸した〕丸丸した顔を傾け
て見せた。
「あの方でせう? 此處へ御出でになると、
〔すぐ〕その日に御子さんをなくなしたのは?」
「ええ。御気の毒でございますわね。すぐに」
(13)
病院へも御入れになつたんですけれど。」
「ぢや病院で〔お〕御なくなりなすつたの? 道理
で何にも知らなかつた。」
女は〔水々しい眼の中〕前髪を割つた額に、か〔□〕すかな憂鬱〔〔な色〕の影〕の色
を浮べた。が、すぐに又元の通り、快活な微
笑を取り戻すと、悪戯さう〔にかう云〕な眼つきになつた。
「もうそれで御用(ごやう)ずみ。〔さつ〕どうかあ〔ち〕ちらへいら
しつて下さい。」
「まあ、随分でございますね。」
女中は思はず笑ひ〔ながら〕出した。〔〔わざと〕女のよりかか〕*
「そんな邪慳な事を仰有ると、蔦の家から電
話がかかつて来ても、内證で旦那様へ〔と〕取り
次ぎますよ。」
「好いわよ。早くいらつしやいつてば。紅茶
がさめてしまふぢやないの?」
女中が出窓に〔□〕ゐなくなると、女は又〔編〕編物を
取り上げながら、小声に歌をうたひ出した。
午前〔九〕十時と十一時との間、――旅舘では
今が一日中でも、一番静かな時刻である。部
屋毎の花瓶に素枯れた花は、この間に女中が
(14)
取り捨ててしまふ。二階三階の眞鍮の手すり
も、この間に下男(ボイ)が磨くらしい。さう云ふ沈
黙が擴がつた中には、唯往來のざわめきだけ
が、硝子戸を開け放した諸方の窓〔〔々〕窓〕から、日の光と
一しよにはひつて来る。
その内にふと女の膝から、毛糸の球(たま)が轉げ
落ちた。球は〔一つ〕とんと弾むが早いか、〔〔ころころ〕赤い〕一筋の赤を。
引きずりながら、ころころ廊下へ出〔□〕ようと
する、――と思ふと誰か一人、丁度其處へ
来かかつたのが、静かにそれを〔拾〕拾ひ上げた。
「どうも難有うございました。」
女は籐椅子を離れながら、恥しさうに會釈
〔した。〕をした。見れば球を拾つたのは、今し方女中
と噂をした、痩せぎすな隣室の夫人である。
「いいえ。」
毛糸の球は細い指から、脂(あぶら)よりも白い括(くく)り
指へ移つた。
「此處は暖かでござい〔ます〕ますね。」
敏子は出窓へ歩み出ると、眩しさうにやや
眼を細めた。
(15)
「ええ。かうやつて居りましても、居睡りが
出る位でございますわ。」
二人の母は佇んだ儘、幸福さうに微笑し合
つた。
「まあ、〔御〕御可愛いたあたですこと。」
敏子の声はさりげなかつた。が、女はその
言葉に、思はずそつと眼を〔伏せた。〕外らせた。
「二年ぶりに編針を持つて見ましたの。―
―あんまり暇なものですから。」
「私なぞはいくら暇でも、怠けてばかり居り」
ますわ。」
女は〔編物〕籐椅子へ編物を〔のせ〕捨てると、仕方がなさ
さうに微笑した。敏子の言葉は無心の内に、
もう一度女を打つたのである。
「お宅の坊ちやんは、――坊ちやんでござ
いましたね?――何時御生まれになりま
したの?」
敏子は髪〔を〕へ手をやりながら、ちらりと女の
顔を眺めた。昨日は泣き声を聞いてゐ〔□〕るの
も、堪へられない気がした隣室の赤〔子〕児、――
(16)
―それが今では何物よりも、敏子の興味を動
かすのである。しかもその興味を満足させれ
ば、反つて〔悲〕苦しみを新たにするの〔は〕も、はつき
りわかつてはゐるのである。これは小さな動
物が、コブラの前〔に〕では動けないやうに、〔〔苦痛〕悲しみ〕敏子の
心〔が〕も何時の間にか、〔悲〕苦しみそのものの催眠作
用に捉はれてしまつた結果であらうか? そ
れとも又〔〔〔創〕傷口を開いてまでも〕悲しみ〕手傷を負つた兵士が、わざ
わざ傷口を開いてまでも、一時の快を貪るや
うに、〔悲〕いやが上にも〔悲〕苦し〔みを求める〕まねばやまない、病的な
心理の一例であらうか?
「この御正月でございました。」
女はかう答へてから、ちよいとためらふ気
色を見せた。しかしすぐに眼を擧げると、気
の毒さうにつけ加へた。
「御宅では〔飛〕とんだ事でございましたつてねえ。」
敏子は沾(うる)んだ眼の中に、無理な微笑を漂は
せた。
「ええ。肺炎になりましたものですから、―
―ほんたうに夢のやうでございました。」
(17)
「それも御出で匆匆にねえ。何と申し上げて
好いかわかり〔〔ま〕□〕ませんわ。
女の眼には何時の間にか、かすかに涙が光
つてゐる。
「私なぞはそんな目にあつたら、まあ、〔ど〕ど
うするでございませう?」
「一時は随分悲しうございましたけれども、―
―もうあきらめてしまひましたわ。」
二人の母は佇んだ儘、寂しさうに朝日の光
を眺めた。
「こちらは悪い風が流行りますの。」
女は考へ深さうに、途切れてゐた話を續け
出した。
「内地はよろしうございますわね。気候も〔此
處〕こちら程不順ではなし、――」
「参りたてでよくはわかりませんけれども、
大へん雨の多い所でございますね。」
〔女は〕今年は余計――あら、泣いて〔ゐるやう
で〔女は〕ござ〕居りますわ。」
〔〔女は〕女は〕〔聞き耳〕
(18)
女は耳を傾けた儘、別人のやうな微笑を浮
べた。
「ちよいと御免下さいまし。」
しかしその言葉が終らない内に、もう其處
へはさつきの女中が、ばたばた上草履を鳴ら
せながら、泣き立てる赤児を抱きそやして来
た。赤児を、――美しいメリンスの着物の
中に、しかめた顔ばかり〔見える〕出した赤児を、―
―敏子が内心見まいとしてゐた、丈夫さうに
頤の括れた赤児を。
「〔まあ〕私が窓を拭きに参りますとね、すぐにもう
眼を御覚ましなすつて。」
「どうも憚り様。」
女は〔〔まだ〕もう〕まだ慣れなさうに、そつと赤児を〔抱き〕胸に
取つた。
「まあ、御可愛い。」
敏子は顔を寄せながら、鋭い乳〔臭〕の臭ひを〔嗅いだ〕感
じた。
「おお、おお、よく肥つていらつしやる。」
〔〔女は〕殆〕やや上気した女の顔には、絶え〔ず〕間ない微笑が
(19)
満ち渡つた。女は敏子の心もちに、同情が出
來ない訣ではない。しかし、――しかし〔こ〕そ
の乳房の下から、――張り切つた母の乳房
の下から、〔湧き上つて来〕汪然と湧いて来る得意の情は、ど
うする事も出來なかつたのである。
三
窓掛けを絞つた二階の窓は、庭木の梢と向
ひ合つてゐる。ぼんやり固まつた緑の中に、
節高(ふしだか) な枝がさし曲つた、槐(えんじゆ)の梢と向ひ合つて
ゐる。敏子は〔その窓〕其處に〔〔よりかかり〕肘をかけ〕佇みながら、も
う暮色が動き出した、木の多い庭を眺めてゐ
る。その仄かな襟足が、後れ毛も戰がせない
所を見ると、何時の間にか微風は吹きやんだ
らしい。が、その中形の湯帷子の肩が、かす
かな、――殆有無さへ疑はしい程、かすか
な薔薇色に煙つてゐるのは、どう云ふ外光の
加减であらうか?
庭木の梢を隔てた空には、支那では洗濯を
する時に使ふ、砧のやうな棒の音が、寂しい
谺(こだま)を〔〔起し〕響かせてゐる。その音の起る所〔に〕へ行けば、きつ
(20)
と水際の芦の中に、耳環を下げた女が一人、
蹲つてゐるのに相違ない。
「おい、〔お〕御前にも手紙が来てゐるぜ。」
敏子は静かに振り返つた。
〔男は〕男は紅木(ホンムウ)の机の前に、樂々とあぐらをかい
た儘、〔〔何〕手紙や〕長さうな手紙を披いてゐる。その後(うしろ)の
白壁には、表装もしない石刷の聯が、無造作
に鋲で貼りつけてある。
「さう。――〔何處にあつて〕これ?」
敏子は机の側に㘴ると、〔何本かの〕其處にあつた手紙を取
り上げて見た。手紙は水色の封筒の上に、〔噐
用な〕拙(つた)ないペンの字〔が〕を走〔つ〕らせてゐる。
「誰だい、平尾敏子と云ふのは?」
〔男はかう云ふ間でも、やはり手紙を讀み續けてゐる。〕男は手紙を讀み續けながら、どうでも好い
やうな尋ね方をした。
「御〔奥の〕隣りの奥さん。あの上海の宿屋〔〔の〕にゐ〕にゐ
た、――」
何分かの沈黙が過ぎ去つた後、敏子は手紙
を擴げたなり、〔突然男に〕妙に震へてゐる声をかけた。
「あなた。」
(21)
「え?」
〔男は手紙を巻き返してゐる。〕
「あの方の赤ちやんもなくなつたん〔で〕ですつ
て。」〔? あんなに丈夫さうな赤ちやんも、――」〕
男は〔驚いた顔を擧げた。〕手紙を巻き返しながら、〔驚いたらしい〕前よりも日に焼けた顔を向けた。
「なくなつた? 何で?」
「風邪ですつて。あ〔□〕んなに丈夫さうな赤ちやんでも。」
敏子は〔蒼白い顔〕憂鬱な眼をした儘、ぢつと手紙に見
入つてゐる。
「始は寐冷え位の事と思ひ居り候――で
すつて。」
「そりや気の毒だな。」
男はちよいと頭を振ると、机の上の鑵の中
から、巻煙草へ一本火をつけた。
「病院へ入れ候時は、もはや手遅れと相〔成〕成
り、――ね、好く似てゐるでせう? 注射
を致すやら、酸素吸入を致すやら、いろいろ
手を盡し候へども、――」
敏子は熱心に讀み續けた。
「手を盡し候へども、――それから何と讀
(22)
むのかしら? 泣き声だわ。泣き声も次第に
細るばかり、その夜の十一時五分ほど前には
遂に息を引き〔と〕取り〔候。〕、――」
敏子は〔ほつと〕かすかな〔息をついた。〕身震ひをした。
「息を引き取り候。〔私の〕その時の私の悲しさ、重
重御察し下され度、――さぞねえ。」
男は何とも口を入れずに、壁に貼つた聯を
眺めてゐる。蒼茫海水溶江水、羅列他山助我
山。――さう云ふ大字の並んだ側には、板
橋鄭Bと云ふ落〔疑〕款がある。
「それにつけても、何時ぞや御許様に御眼に
かかりし事なぞ思ひ出され、あの頃は御許様
にもさぞかし、――ああ、いや、いや。」
敏子は手紙を投げ捨てると、神経的に濃い
眉をひそめた。
「ほんたうに世の中はいやになつてしまふ。」
「いやになつたつても仕方がない。どうせ生者必
滅なんだ。」
男は煙を〔吐〕吐き出しながら、寧ろ冷かにか
う云つた。
(23)
〔云つた。〕
「それでも〔余り〕あんまりひどすぎるわ。赤ん坊に
罪でもありはしまいし。」
敏子は力が抜けたやうに、畳へ片手ついた
なり、其處に落ちてゐる手紙の上へ、もう一
度暗い眼を落した。と思ふとその眼から、突
然涙が〔頬〕膝へ垂れた。
男はちらりと敏子を見た。が、それには何
とも云はずに、やはり煙草を吹かしてゐる。
「あなた。」
又何分かの沈黙の後、かう云ふ声が聞えた
時に〔は〕も、敏子は〔頬杖をついた男に、〕まだ拗ねたやうに、〔泣き濡れ〕蒼ざめ
た横顔をそむけながら、〔悲しさうに〕空間の何處かを
眺めてゐた。
「何だい?」
「私は、――私は悪〔い〕いんでせうか?」〔〔御隣り〕平〕平尾
さんの赤ちやんのなくなつたのが、――」
男は火のついた煙草の先から、女の横顔へ
眼を移した。
「なくなつたのが嬉しいんです。」
(24)
敏子〔は〕の声には今までにない、荒々しい力が
こもつてゐる。
「御気の毒だと思ふ〔の〕んですけれども、――
それでも私は嬉しいんです。嬉しくつては悪
いんでせうか? あなた。悪いんでせう〔〔〔□〕か、〕か?〕か、
私は?」
男は煙草を啣へた儘、もう一度何とも〔考〕答へ
なかつた。何か人力〔〔に〕の〕に及ばない物〔〔と、〕に、〕が、〔黙〕厳然と
前へでも塞がつたやうに。
庭木の梢が暮れか〔た〕かつた空には、砧に〔よく〕紛ひ
〔似た〕さうな棒の音が、寂しい谺を〔□〕響かせてゐる。そ
の音の起る所へ行けば、きつと水際の芦の中
に、耳環を下げた女が一人、〔〔〔□〕夫の〕今でも〕夫の服か子供の
服〔を〕の洗濯をしてゐるのに相違ない、……