(1)
[絵本武者大仏桜 上]
(2)
畫本武者大佛櫻
神功聖后三韓を西征し給ふて後
千歳寥々たり爰に真柴の武君大和
國を掌握し亦大明國中に入りて
其國王とならんとし道を朝鮮に假
りてんと其趣意を朝鮮に告ぬれど
(3)
其返答だにせぬを憤り終に三軍を
促して先朝鮮を征し給ふ嗚呼
大器大勇にして武威を異域にかゝや
かし給ふは我國の美誉なりと末世に
其話を傳へ賞ずいでや其あらましを
畫にほとこし童蒙の眠を覚させ
むと筆を染て略始末を記しぬ實
治れる代に相生の大佛桜咲にほふ
花の春こそ筆に盡せじ
安永五丙申初春
臥山人江文坡撰
(4)
天正十八年の比
朝鮮の三使.黄
箴之金允吉.許
誠一の三人日本へ
来朝しければ真柴
大梁久𠮷公三使に
たいしてのたまふは
我下賤より昇
進して今天下を
掌握すといへども
かつて我母日輪
ふところに入と夢
見て我を生り
時に相人の曰日輪
の照す事いたらぬ
所なし君すえ/\
にては天下の主と
なり給はんと
いひしが今かれが
いひし事違ず我
思ふに人生いく
ばくなく百年の
寿命の内空
しく日を送
らんや我大軍
を以て大明に入
て四百余刕を
治めん其時
朝鮮は先陣を
いたしかへられよと
のたまひて書簡を
朝鮮へつかはされけるとかや
(5)
真柴久𠮷公
久木大隅守
嘉春に仰
付られ伊
勢浦にて
軍舩数百
艘つくらせ給ふ
其舩の大きなるを日本
丸といふその外中国四
國九刕にて大舩をつくる
肥前の名護屋に久𠮷公
の御陣屋をつくる又琉球
國へ書をつかはし給ひて加勢
すべきよし申遣し
給ふ琉球國より
此よしを大明へ
申つかはしけると
かや
(6)
西摂津守長行藤
主計頭正清黒太
甲斐守直政兵士
十万余同じく
肥前名護
屋を發して
壹岐の風本
にいたりて逆
風により舩をとゞ
めて滞留し居ける
に西長行其夜ひそ
かに纜をといてさか
まく浪風をしのぎて
朝鮮の釜山海に
いたり朝鮮人と
軍をはじめ
ける
(7)
浮田秀家は
五月西
長行先陣
してふかく朝
鮮國にいりて
軍をすると聞
て軍列をかけ
ぬけ舩をはや
めて釜山海
にいたり
朝鮮人と
たゝかふて
行長をた
すけければ
西長行
大によろこび
けると
なり
(8)
藤正清同じ
く遠江守黒
太長政並島茂
直と忠刕に出逢ける
時西長行と評義
していはく先陣は
此藤正清なりと
長行がいはく
朝鮮
の先陣は
我なり
日本にて
其定ありと
たがひに問
答して既に
相戦はんとし
たりけるを
並嶋茂直
両方をせい
していはく先陣は誠に長行なり
しかれども王城に入るには長行
正清道をちがへわかれて
ゆくべしと
いひて事を
おさめしと
かや
(9)
藤正清並
嶌茂直があい
さつによりて王城の道
二筋あり南大門へ出る
は百里ばかりなり東
大門へは百余里にて少
し遠ししかれども
河なしと正清のいはく
たとへ大河ありといへとも
我はそのちかき方よりゆかん
と南大門の道へ兵をすゝむ
西長行これをきゝて水
練のもの二十人ばかりつかはし
いそぎかの大河の舩又は
筏をこと/˝\く切
ながしをきけると
かや
(10)
西長行が
はかりことにて
大河の舩いかだ
をこと/˝\く
切ながし近所に
舩一艘もなき
ゆへに藤正清
河の端へゆき
かゝり舩をたづ
ぬれどもなし
大河の浪あらくして
なか/\わたるべ
き河ならねば
ぜひなく河辺
に陣をとりて
日を送り
しと
なり
(11)
去程に西長行
藤正清を南大門
の道へやりて大河の
舩筏等を切ながし
置正清をなんぎ
がらせその中に
軍勢を
いとつて
東大門の
道筋を
朝鮮の
王城へいそ
ぎゆき
けると
かや
(12)
西長行はついに王城の
東大門にいたり
つきて門へ
入らんとすれ
ども
関門堅く
とざして
石垣高く
そびへ門の高さ
十余間有て入る
事あたはず或人の
いふやうはもし門の傍
の水門を開かば五十人百人
入る事なるべしと西
長行是にしたがふと
いへども水門方五尺鉄を
もつて作れば打くだく
事あたはず長行くつ
たくしてゐる所へ木戸
作右衛門鉄砲臺を
はづし其筒をもつて
水門を打くだく
によりて長行
を始みな
/\入ける
となん
(13)
藤正清の先陣漸
朝鮮の南大門に
いたり王城へ入らんと
したりしに門を守
もの長行きのふ
王城へ入り給ひて
我等をまもらしむる
といひければ正清大にいかりて
いはくしからば朝鮮の国王と
王子とを追かけて生捕この
腹をいんとそれより藤正清は
軍勢をひきいて兀良哈の
かたへいそかれけるとかや
(14)
兀良哈
の者とも
藤正清の
先陣に道
ををしゆ
それゆへ終に
朝鮮の王子達に追
付事を得て皆々生
捕功名して武名を天
下にほどこすといへり
(1)
[絵本武者]大仏桜 中
(2)
藤正清は朝鮮
の王城にいたり
けれども西
長行きのふ
早く王城
にせめ入しと
聞大に怒り
それより朝
せんの王子の
落行あとを
追んと夜の中に
打立きやうあん道へと
いそぎける召つれし案
内者しる方に付て追かけ
行は太子はいづれの縣におはし
まし給ふと聞正清悦びける
(3)
斯て藤正清は朝鮮の
太子を追ふて兀良哈の
境に至る時に朝鮮の太子
は敗軍数百人を率して
一の家に入り休息して居
給ふ所へ正清使を遣は
していひやり
けるは吾いま
君を追ふて
爰に来る早く
吾陣へみな/\
入来られよと
申ければ太子
の近臣等答
へていはく日本
の大将若太子
を助はわれ
/\太子を
其方へ相見
さすべし若たす
けずんば太子爰
にて自害し給
はんとありければ
正清返答に
太子をころす
事なし且
むかしの
ごとく和
睦して親
むべしと
太子を始皆々
大に悦びける
(4)
斯て朝鮮の太子より正清の
陣へ使をつかはしていはく我
々頃日飲食を絶事数
日なり正清我かたへ来り
て饗應すべしと正清
是をうけかひ飲食
を調へ太子の居給ふ
家にいたりしに東方
をもつて太子の座
とし西方をもつ
て正清の座とし
て拝礼ことおご
そかなり酒三度
めぐりしに正清の
家臣どもあちこち
とかけあるくを見て
朝鮮の軍勢すは
や我々を害するなら
むとおもひ半弓を
ひき大勢正清
をとりまきけれ
ば正清の家臣
等もみな/\
立さはぎすは
事と見えけるに
正清は太子を
とらへて人質
となし太刀を
抜てすはといはゞ
太子を害せんと
すてに双方あや
うくぞ見へける
(5)
去程に正清
すでに危く
見へければ近
臣等もせん
かたなくあき
れ居たりしに
正清心にふと
おもひけるは
唐土にては
とかく印章
をもつて誓
をなす事な
れば爰ぞと
我印判を
とり出し
紙におして
投出せしかば
是にて皆々
得心して漸
しづまりける
それより朝鮮の
太子臨海君其外の
王子達をともなひ
朝鮮の王城へ帰り
ける
(6)
されば西長行は
数度の軍功を
あらはすといへども
王子をとらへざる
事を恨として是
より正清と中不和と
なりけり時に朝鮮王
李舩は書簡を大明
皇帝へつかはして援の兵
を乞給へは遼の将祖承訓
史儒といふ者に精兵三千
をしたがへさせ鴨緑江を渡
りて朝鮮をすくはせ給ふ已
に祖承訓は平壌安定舘
にいたる西長行その夜軍
勢をつかはして安定舘をかこむ
遼の軍兵是を見て大に
おどろきさはぎけり
(7)
西長行は其明の日安定
舘へをしよせけるに祖承訓
史儒大にたゝかふてみな/\
敗北し三千の軍勢皆打
死をぞしたりける
斯て其後大明帝李如松
といふ者を
大将として
宋應昌といふ者をそへ
其勢都合五万余騎にて
朝鮮へ発向す既に安定
舘へいたれば二十万騎とぞ
なりにけるさしも勇氣の
西長行も此大軍にかな
はじとやおもひ
けん平壌をすて
て王城へかへりける
其明日李如松は
城へせめかゝり
けれとも
長行あら
ざれば
跡を追
ひけると
なん
(8)
藤正清は軍勢を兀良
哈の境に出し村里をかす
め取て金山といふ所に城を
きつき加藤与三左衛門に
三千の軍兵をそへて守ら
しむ其外橘中といふ
所に城をきつき九鬼
天野山田等に
三千の兵を
つけて守
らしむときに
群盗大に發りて
金山を攻けれは
正清は斉藤立本
庄森隼人と共に
金山にゆきて群
盗と大にたゝ
かひかの
群盗を
打ちら
す
加藤与三左衛門はうち
死にしけれども正清
ついに勝鬨をあげて
王城へかへりける
(9)
大明の李如
松は十万の兵
を率し高昇
孫守廉祖
承訓等が二
万の兵を先
陣とし朝鮮
の兵を後陣
とし開城川を
わたりて碧蹄
舘にいたる早
川季景立
花左近久茂
久留米秀景等
つゞみをならして
相戦ふ李如松李
如柏李如梅等
日本勢とこゝを
せんと相たゝかひ
しか井上三右衛門
李如松をすでに
打んとせし
を明兵相
たすけて
敗北しぬ
日本勢李
如松を追ん
とせしを早
川季景是
をとゝめて
みな/\
王城へ
かへり
ける
(10)
三月王城の諸将十万
騎しばらく合戦を
止て数日を送りける
に藤遠江守細井
勝奥長谷部藤六
木村半七等七人
晋刕をせめんとしたりける
それ晋刕といふは朝鮮
第一の城に
て王城を去
こと四日路也
初め朝鮮王
義州へ走る時
代々の宝物.数
多此城におさむ
守る兵二万余
騎ありしを細井
藤木村はしらず
して山坂を越て
城下にいたり城
兵と大に戦ひし
かど二万の兵と七人と
なれば勝事あたはず
四角八方に敵を
切ちらし七人は王城へかへりぬ
(11)
斯て朝鮮在陣の諸大将より日
本へ加勢の軍兵をしきりに乞もと
めければ久𠮷公則安藝侍従毛留
秀顕に二万騎の軍勢をさづけ朝
鮮國へ渡海さゝしめ給ふ毛留秀顕
即座に渡海ありけるがなをも加勢
をつかはさんと肥前名古屋にて評義
ありし所に大明の沈惟
敬といふもの明景より
てうせんへ
きたり
わぼくの
事を
しきりに
もふし
けると
なり
(12)
大明の沈惟敬は
開城にいたりて
李如松に逢ふ
て和睦の事を
いひ含め又西
長行に逢ひて
和談の事を取
むすびて久𠮷公を
大明皇帝の婿と
せん和談ならば
朝鮮の二王子并に
取人となりしもの
を皆々かへし給へと
いろ/\申ければ日本の諸将も
和談の事をゆるして
まづ諸軍を釜山海へ
かへすべきになりし
かどももしも変
あらばとて陣屋
/\に火をかけ
烟にま
ぎれて
釜山海へ
みな/\
軍をかへし
ける是皆
早川
季景
の計略
なり
とぞ
(13)
沈惟敬遊撃将軍
文禄三年三月十六日
西長行へ書簡にて
去年八月下旬に約
せしごとく唐使両人
同道にて久𠮷公の御
内意を𣴎り和睦に
及ぶべきとの事
なれば則御
返簡にも
和睦すべき
との事やがて
唐使三人肥前
名護屋へ
渡海をぞ
したり
けり
(1)
[絵本武]者大仏桜 下
(2)
斯て大明の三使帰国してよりいまた
和睦の返答あらざれは久𠮷公又朝
鮮在陣の衆へ書をつかはし給ふて
いよ/\ゆだんなく在陣いたすべし
大明の和睦はいつわりならんとあり
ければ諸将いよ/\諸陣をかたく
まもりゐたりけり
(3)
藤正清はもと
より大明と
日本和睦の
事を破りて
大明國へせめ
いらんとおもふ
心あり是より
さきに内田
飛騨守
行宗は大
明國へ和睦
の使に参り
しがいまだ
其返報あら
ざれは定て
大明國にて
殺され
たらん
とこれに
よつて
十一月三日
正清は軍兵
をひきいて
安康をせめ
けるに大明の
劉綖慶州に
ありしが来り
て戦ひしに
正清これを
うちやぶりて
三百餘人の首
をとりけり
劉綖は慶刕へ
ほう/\逃
かへりける
とぞ
(4)
斯て内田飛騨守行宗は大明経略
孫纊字は文融が旨を得て大明國
に入りければ司馬石星是をあしろふ
て甚だ厚し其後行宗石星と問
答して和睦の事既に成就したり
ければ沈惟敬釜山海にいたる是ゆへ
日本の諸将大半帰朝しけれども
西長行なを朝鮮にとゞまりける
(5)
文禄四年の比朝鮮
在陣の諸将みな/\
つれ/\のまゝ朝鮮
國にて虎がりをはじ
められ数多の虎を
打殺しぬ伊藤又兵衛
一つの大虎を手にて
打ころしける
此虎がりのとき
其長丈餘の大
虎を生捕て
日本へわたす
諸人群集
して是を
見物し
たり
ける
(6)
斯て大明の冊使は李宗城
揚方亨なりしが李宗
城は釜山海よりその詰命
をすて衣装をぬいで夜ぬけ
し大明へ逃かへりければかさね
て明帝より揚方亨を正使
とし沈惟敬を神機三営
添註遊撃将軍として副使
の役を仰せつけられ六月に
四百余人の従者を引つれ釜
山海を出舩しければ藤正清
西長行もともに帰朝し
けり
(7)
八月に大明の使揚方亨沈惟敬
及び朝鮮の黄慎朴弘長ともに
和泉の堺に着にけり扨五六日休息
して八月廿九日揚方亨沈惟敬伏見
に趣きければ海道筋見物群集し
けり大明の使者管弦を奏し
もつとも道中威儀をつくろひ
て誠に壮観なりけり
(8)
時に久𠮷公梅川豊前守
調宗をつかはし朝鮮の使者
黄慎朴弘長をせめていはく
朝鮮の王子みづから来りて
御謝礼申べきに使者を
おくるだん無礼至極
なり罪髪をぬくべし
大明の使者と同じく
拝礼する事かなはず
といかりいひければ両使
おどろき長行により
て段々わびけれども
久𠮷公聞入たま
はずと
なん
(9)
九月二日大明の使方亨
惟敬伏見の城に登り
ければ方亨まへにあり
惟敬は金印を捧げ
階下に立しばら
くありて殿上
の御簾をまき
上ければ久𠮷公
従臣二人に太刀
を持せ出給ふ
群臣みな/\拝伏し
たりけれは惟敬大
に驚き恐れて金
印を持ながら匍匐
しければ方亨も
拝伏したりけり
西長行
取次して
大明の
使者みな
/\拝
礼し
たり
けり
(10)
斯て惟敬金印及び封王の冠
服を捧げ又日本の諸臣の冠服
五十餘具をさづけたり扨翌日
久𠮷公大明の使をめして御
馳走あり上檀の間は久𠮷公
赤装束に唐冠を着給ふ
大明の使は右の方に日本の諸
将は左の方に坐し大明より
送る唐装束をきられたり
其外諸将は南掾につらなり
時に久𠮷公大明の書簡を
讀しめ聞給ふて大に怒り
ていはく明帝われを
封じて日本国王
とするか
なんぞ日本王になる
事彼が力をからんとて
大にいかりたまひしとかや
(11)
斯て久𠮷公大に怒り大明
より送る装束をぬぎすて
書簡を打付長行我を
あざむくといかり給ふ長行
数通の書簡を出しいひ
訳しけれは漸怒をやめ
給ひ早々大明の使を
かへすべしなを此
うへは大明朝鮮せめ
やぶらんと再び
起る朝鮮ぜめ
かの唐人の
耳鼻も爰
に残りし物語
大仏桜散うせず
花の都にさかり
見す
らむ
(12)
花洛畫人 下河邊拾水
安永五丙申歳正月吉辰
書林
江戸日本橋南壹町目 須原屋茂兵衛
大阪心齋橋南久宝寺町 柏原屋嘉助
京都寺町通松原上ル町 菱屋治兵衛