国芳の戯画は、天保13年から弘化2年の期間に最も多く出版されている。これは言うまでもなく、天保13年6月に天保の改革の一環として役者絵、遊女・芸者風俗の出版が禁じられたためである。 『武江年表』(斎藤月岑著)の「天保年間記事」に「浮世絵師国芳が筆の狂画、一立斎広重の山水錦絵行はる」とあるが、天保12年以前の国芳の戯画は全体から見ればわずかである。また、この記事について喜多村筠庭が「この頃国芳、頼光病床四天王の力士直宿を書きたる図」の評判について述べていることから、月岑が「国芳が筆の狂画」とするのは水野忠邦の行った天保の改革を諷刺していると大変な評判になった天保14年正月頃の出版である大判三枚続「源頼光公館土蜘作妖怪図」を指すものと見られ、ここでいう「狂画」とは一般的な戯画ではなく「判じ絵」と考えるべきであろう。 戯画の範疇を明確に規定することは難しく、本作品目録では、描写表現が戯画とみなされる作品を扱った。したがって、国芳の署名に「戯画」とあっても、本目録に含まなかった美人画などもあり、心学の啓蒙的な作品、流行神、福神の絵などであっても、戯画的な表現方法がとられている作品は本目録に取り上げている。
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